オオサカジン

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シチリアで交通違反切符切られました


カターニアからブロンテへ向かう途中の広めの自動車専用道路から地元の幹線道路に変わったあたりで、通り過ぎたときなんとなく白く光ったような気がして不安に思いながらもその日の宿にチェックインを急いでいたので、続く旅路を進みます(そもそもどうにもならないんですが)。



イタリアに住んでいると、違反(スクーター:モトリーノを所有)した時は後で住所に切符が送られてきます。その場で停止させられ切符を切る日本式のものはあまり見たことありません。なのでバックレる人もいましたが追跡されてとんでもない金額を請求されていた人も。

僕は一度進入禁止(時間帯で別れていたりするので間違えやすい)を入ってしまい違反切符を送付されたことがありましたが、郵便局で支払った記憶があります。支払いは何でもだいたい郵便局なので朝からすごく人が並んでます。午前はそれで終わるくらい(涙)。


外国から来た人の場合どうなるのかがはっきりわからなかったのですが、想像するに借りたレンタカー会社を通じて何か連絡が来るものだと思っていましたらやっぱりそう。ある日一通のメールが。



レンタカー会社からのメールは、要は『なんか来たけど私らに問合せしてもわからんからよろしく』ということが仰々しい文体でイタリア語と英語とで書かれてきます。

添付されているのが警察からの違反連絡書みたいなもの。始末書というか調書というか、正確になんて呼んでいいかわかりませんが『VERBALEヴェルバーレ』といいます。

VERBALE


こういった公的な文書は殆どが形式的な個所が多く、イタリア人にすら要点を見つけるのが難しいのですがどこでどんな違反をしたのかということはわかりました。思った通り最初に気づいたところのことでした。

違反をしてからこのメールが来るまで実際にどのくらいかかったかというと、2019年7月23日に違反があり、9月3日に発送され、メールが届いたのが10月2日でした。もはや早いのかどうかもわかりませんがいろんな方のブログなどを見てみると1年経ってから来た、半年経ってから来たなどと書かれているのでもしかしたら早いほうなのかもしれません。


ところがイタリアに住んでいる(もしくは近くにいる)ことが前提の通知書なので発行した警察署に本人確認書類と一緒に出頭しなさいと書かれており、そんな事が出来ない遠くに住んでいる人のためにお金を振り込んで終わり、というシステムは最初から考えられていません。かといってわざわざ支払いのためだけにイタリアに行くわけにもいかず送金するだけで済ませたいのですが肝心な支払方法が書かれていないのでどうしようもありません。メールアドレスが書かれているので問い合わせてみたのですがどのメールから送っても弾かれて返ってきます。海外からのメールやフリーメールがサーバーで受け付けてないのかと思いイタリアの友人から送ってもらうようにしようと、ある友人に連絡してみました。

割と返事の早いヤツなのですぐにメールしてくれたみたいなのですが彼のもとにも戻されてきたようです。そんなメールなら最初から書いておくなっ!とも思いましたがそこはイタリアの公務員に言っても仕方ないことはサルでもわかります。


そこで彼にお願いして電話してもらいました。

割とあっさり答えが返ってきたのですが海外からの送金の場合はIBANコードと言われるものが必要でそれが書かれた振込用紙のコピーが送られてきました。

振込用紙

内容だけ文字で送るんじゃなくって実物のコピーを送ってくるところがイタリアっぽいですがまあ分かればいいです。



海外送金についてはいろいろありますが手持ちの中では圧倒的に楽天銀行の送金が手数料が安いのでそれを利用します。

いくつか手続きしないといけないので今口座作ってすぐに振込できるわけではないのです。1日かかりましたが僕の場合はすんなり受け付けられたみたいです。海外送金はマネーロンダリングなどのこともあり、結構きっちり目的・用途などを確認されます。最大金額や頻度なども入力させられます。


イタリア滞在のある僕でさえ面倒だと思ったので普通の人にはもっと憂鬱だと思いますので参考までに。








そりゃ毛も抜けるわ(そのうちわかります) その2



イタリアに着いて一年はシエナというトスカーナの城壁に囲まれた古い街に住んでいました。
文化の違いがあるので今思えば笑い話や思い出話として話も出来るけど当時の僕は毎日が困難との闘いでした。怒りと憤りが語学上達のモチベーションアップにつながっていたのは間違いなく、トラブルのあったカメラ屋に文句を言いに行くのにイタリア語でノート3ページは準備していったり、郵便局や大学に交渉しに行くのに『こう言われたらこう言い返す』ストックをいつも持って行ってました。不思議なことにそういった人とは最終的に良い関係になれていたと思います。先日載せた写真のカンポ広場はその行き詰った気持ちをほぐしてくれる大切な場所です。
そのカンポ広場で年2回(あんなにでかい行事なのだから一回でいいと思うのに)行われる鞍の付いてない馬のレース、『IL Palio』(パリオ)を見に行った時の写真です(だんじりと一緒、町と町(16町だったかなぁ)で命を書けた決闘です)。7月と8月にあるのですが7月のものに行きました。当時は時間も余裕があったので友達と様子見ながら15時くらいから広場の真ん中でカードゲームをしながらスタートまで待ってました。スタートは夜8時です。炎天下の中半裸でカードゲームが出来ていたのも若かったからでしょうか(笑)。噂には聞いていましたが次々と人が広場に入ってきてそのうち入り口が制限されて入場できなくなる人も!一番いい場所を確保していたつもりだけど押されていって馬の走るところから離れてしまってもう何が何かわからない・・・(続く)





ローマで誤認逮捕!


イタリアでの思い出の中でもTOP3に入る出来事がこれ。



サンジョヴァンニ近くに住んでいた頃、同居人の借金の肩代わりの担保として所有していたITALJET社の名車

『Velocifero50』です。MoMAにも永久展示されている(はず)のこのバイクは当時街を走っていて誰もが

見ている感覚になる自慢のバイクでした。



それが起こったのは忘れもしない99年1月30日、日本から遊びに来ていた友人が滞在最終日に

いろんな人を呼んで家で食事をしようと計画し、Piazza Vittorio(テルミニ駅近くの有名なメルカート)

まで買出しに行ったときのことです。

これまたローマでは有名な『M.A.S.(Magazini allo Statuto)』と呼ばれる安いのが取り得のデパート(?)

の前に駐輪してたくさんの食材を抱え帰路に着くところでした、1時30分ごろです。



みたことのない女性が近寄ってきて尋ねるのです、『そのバイク、あなたの?』

名義は同居人のものでしたが実質的な所有権は僕にあったのでもちろんすかさず

『そうですが、何か?』と答えるや否や、

『そのバイクは私と姉が持っていたものだ!エミリアロマーニャに住んでいたときに盗まれたものだ!

傷跡も一緒だし凹みも同じだ!シートの下の物入れに入っているビニール袋もその時入っていたのと

同じだ(丁度開けていた)!  泥棒、泥棒、警察、警察!!!!!』

姉といわれる人を呼びつけ、スグに警察を呼び出しました。




あっという間にパトカー4台、警官8人に取り囲まれ、野次馬推定500人、全て出して調べられた挙句

頭を押さえつけられながらパトカーに押し込まれ、バイクも押収されてManzoniの警察署へ

(歩いていけたんだけど笑)。まるで凶悪犯のタイホ劇でした。



当時は携帯電話もないし無実を証明してくれる同居人に連絡も取れず、警察署で『とにかく連絡取らせてくれ』

といっても取り合ってもらえず、『こちらから連絡をする』といわれて取り調べ開始。

何とかそいつが来たのが3時半を回っていて(汗だくで家から走ってきたみたい。

だってバイクは僕が乗ってたから笑)、それから購入したショップに連絡とって無実が晴れたのが

7時を回っていました。



そのときはパニックになっていた友人も最後のほうは楽しんで取調室とかの記念撮影したり

通路にあったコピー機で自分の顔をコピーしていましたが(笑)。

最後まで『私たちのに違いない!』 と言い張っていた姉妹は、警官たちが僕らに同情してくれていたところを見ると

ちょっとイタイ人達だったようです・・・



帰り際に『ちょっと頼みごとがある』と、階下の部屋に連れて行かれ、桂三枝似の警官から

カードのようなものを渡され、書いてある字を読んでくれと言うのです。どうやら盗難にあった

物の中に手がかりになるものはそれしかなくて日本語だろうと予想は出来ても全く読めなかったところ

丁度僕たちが居合わせたから協力を求めてきたようでした。返還されましたか?、林さん(笑)。



家に帰ったのが8時、連絡も取れず最後の晩餐なのに本人たちがいないので困っていただろう友人たち

に連絡を取ると、意外にも余裕で『あ、そう。今から行くよ』と訪ねてきてくれました。


時間がないので簡単にナベをしたのですが最後にチゲ鍋風にしたところ『なんていう料理?』

と聞かれ、『このスタイルは『ナベ』という。”Hot”は『カラ~イ』という』中途半端な答えをしたところ

『ナベカラ~イ』
 という語呂が気に入ったらしく何度も繰り返していました(笑)。



だから、僕のこの『誤認逮捕』と『ナベカラ~イ』はセットでの思い出です(笑)。



追記:今思えば、シートの下のビニール袋は入れた覚えがないんですよね~。ひょっとして嵌められかけていた?!





イタリアの警察


イタリアはとても複雑な警察の機構で成り立ってます(参照wiki)。



日常的に目にするのは、それでもいくつかに限られるのですがそこそこややこしいです。

僕が知っている限りのことを言いますと、まず写真にある『Polizia di Stato』。

いわゆる普通の警察です。色々ありますが当時の僕たちに一番関わったのは

滞在許可証の更新手続きですね、散々なこともありますが今となっては思い出です(笑)。

それについてはまたいずれお話したいのですが今日はまず概要です。



そのつぎに『Polizia Municipale』、地元の警察といいますか各自治体が持っている

比較的簡単なこと(交通整理など)を取り締まり、写真のようなヘルメットをかぶって

徒歩で巡回している人達をよく見かけます。



『L'Arma dei Carabinieri』いわゆるカラビニエーリですが、正確には彼らは『軍人』になるのですね。



上の写真の制服を着ている人も街中でよく見かけますが、観光客と記念写真を撮るのも

彼らの仕事の一環のようでまず間違いなく快く一緒に撮ってくれます。

しかし警察といえば一つしかない日本人にとってそれぞれの仕事の役割の違いがはっきりわかりません。

泥棒が入ったとき、喧嘩があったとき、交通事故があったとき、遺失物の届出、正直最後までよくわかりませんでした。

僕が警察に行ったのは、

1、バイクを盗まれた時

2、自転車を盗まれた時

3、滞在許可証の手続き

4、誤認逮捕された時(詳しくは次回)

ですが、すべてPoliziaでした。


あと、たまに見かけるのが『税務警察Guardia di Finanza』、『刑務警察(Polizia penitenziaria)』、

などがありますが、僕らはほとんど関わることがありませんでした。

日本の警察も中で色々分かれているのでしょうが、窓口は一つで単純です。

世話になることが少なかったからって知らないことは幸せなことなんでしょうか(笑)?











2001年 ASローマの優勝


デジカメのデータに2001年の6月18日となってますがあっているのでしょうか?今とは時期がちょっとずれてしまいますが写真を整理していたら出てきました。思い出の中でも実はそんなにサッカーに入れ込んでいたわけではないので『にわか』に騒ぎに便乗したくらいです。



当時住んでいた部屋から撮った外の光景です。ローマファンが居ても立ってもいられないという感じでどんどん外に出てきます。



あっというまに大通りはローマファンの車で埋め尽くされました。それぞれの思いの旗やシャルパ(チーム名がはいったタオル地のマフラー)を振りかざしながら練り歩いてます。さながら暴走族の元旦走行会みたいですが特に誰も何も言わないところを見るとほとんどの人が容認している模様です。



中には日の丸を掲げた車もありました。当時のASローマにはかの中田選手もいましたので、日本びいきのロマニスタもいたようです。

これが17時49分だったのですがこれからが長い『ローマ優勝の宴』の始まりでした。
夜はもともとみんなで食事に行こうとしていたのですがあまりサッカーに興味のなかった我々は外がどういった状況になっているか楽観的でした。それが思っている以上に混沌を極め、バスはなかなか来てくれません。



見えにくいですがこうしてバスも占領されている上に渋滞がハンパないからです。
まあそれでも何とかPiazza Vittorio 近くのお店に入って食事を済ませて出てきたころは最高潮だったのでした。



これも見えにくいですがワゴン車の上に旗を持った若者が二人乗っています。危ないといえば危ないのですがアドレナリンが止らない彼らはとにかく歌い続けます。

"Siamo Noi, Siamo Noi, il Campione d'Itala,Siamo Noi!"(俺たちがチャンピオンだ! もと歌というものがたぶんないのだけどとにかく良く聞く歌です)の大合唱はこれから3日間、昼夜問わず歌い続けられました。



トラックに乗ってる集団もありました。Santa Maria Maggioreの前辺りで何か言っていたLazioファン(Laziale)がボコボコにされる現場も見ましたがその辺はロマニスタたちも暴れることより喜びを分かち合うことを優先させていたのでさらっと立ち去りましたがそんなこともありますのでイタリアでそういった現場に遭遇した場合は静観しているか喜んでいる人たち側に立っていてください(笑)。



おまけで当時のシェアメイトのPaolaです。





そりゃ毛も抜けるわ(そのうちわかります) その1


イタリアに行ってすぐには知り合いがいなかったので話ができるのは通っていた語学学校の先生(それも話していたというには程遠い)ぐらいで、9月末から通いだしたのでクリスマス気分が盛り上がるころの今頃はそれなりにクラスの人達と親しくもなったがほとんどがヨーロッパ人(オランダ、スイス、ドイツ、デンマーク等)なので年末年始は家族の元へ行くわけ。ニッポンから来た僕は帰省予定もお金の予定もなかったので上住む家の契約も終わっていた(シエナの街中に住む外国人は3ヶ月契約が多かった)のでお金持ちで長期契約していた帰る予定のない韓国人の友人の部屋に2週間、いやもう少し居たかな、居候ではなくシビアに大家を介さない臨時賃貸契約でお金を払っておいて貰っていた。その辺の記憶は結構もう曖昧で、31日のカウントダウンは確か2人でフォルテッツァ(古城公園みたいなところ)あたりで雰囲気を味わっていたこと以外は覚えてないんだなぁ。結構シエナには日本人も居るんだけど同じ学校には1人もいなかったし、次に通う予定のシエナ外国人大学に行けばいやでも知り合うだろうと思って日本人のコミュニティからは遠ざかっていたように思う。韓国人といえど共通語はイタリア語、周りから見たら同じような顔して何でイタリア語喋ってんのか不思議だったろうな(笑)。そのころ飲んでたワインといえばスーパー(CRAI!)で一番大きなビンで5500リラ、空き瓶を持っていったら500リラ返してくれるってんでまとめて10本持っていったらビックリされた。これ全部お前が飲んだのか、って。20Lだからね(笑)。今飲んだらどうだろうね、まさか今こんな仕事してるとは思わなかったから、その頃。コッポラの存在もまだまだ現れる気配もなかった1997年の暮れの思い出。

写真はカンポ広場のマンジャの塔。一回のぼりました、超二日酔の日(笑)。